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徳島家庭裁判所 昭和51年(家)927号 審判

申立人 森田秀明

相手方 井上礼子

事件本人 森田由里

主文

申立人の本件申立を却下する。

理由

第一申立の要旨

一  申立の趣旨

「事件本人の親権者を申立人から相手方に変更する。」との審判を求める。

二  申立の理由

(1)  申立人は相手方と結婚して婚姻の届出をし、相手方との間に事件本人の長女由里(昭和三九年四月二八日生)長男健一(昭和四二年五月一〇日生)をもうけた。

(2)  申立人は昭和四七年一〇月四日相手方と協議離婚し、その際事件本人および健一の親権者を申立人と定めた。

(3)  その後申立人は現在の妻順子と、相手方は井上廣志とそれぞれ再婚し、相手方は夫井上廣志との間に一子をもうけている。

(4)  申立人は現在相手方との間の二人の子供と同居して養育しているが、長男健一が病弱のために手間がかかり、困惑している。これに対し、相手方は夫と裕福な生活を送つているので、申立人は事件本人の親権者を相手方に変更し、相手方に事件本人を引き取つてその監護養育をしてもらいたいと考えている。

第二当裁判所の判断

一  本件記録ならびに審理の結果によると次の事実が認められる。

(1)  申立人と相手方は、昭和三八年一〇月恋愛結婚して、同年一一月六日婚姻の届出をし、昭和三九年四月二八日事件本人である長女由里、昭和四二年五月一〇日長男健一をもうけた。

(2)  申立人は昭和四四年頃から小松島市内の○○○○○○○株式会社○○○工場に勤務し、会社の社宅に相手方および二人の子と同居していたが、この間夫婦は相手との性格ならびに生活態度の違いに気付いて、互に不満を抱くようになり、よく喧嘩して衝突し、昭和四六年七月二三日相手方は実家へ帰つて申立人と別居し、申立人は同年八月二日夫婦の性格不一致を理由として当庁に離婚調停の申立をした。

(3)  事件本人は当時○○○○小学校一年生であつたが、幼少より早熟、過感で、情緒不安定な性向が目立ち、発達が遅滞して集団生活に適応できず、社会性が発達した点がある反面落着がなく、興味のないことには見向きもせず、いろいろと問題行動があらわれた。学校側は事件本人を「本校はじまつて以来の変者」と評価する位で、事件本人の問題行動、集団生活への不適応は小学校入学してから家族の均衝をおびやかすようになつたが、夫婦はその養育方針でもいたずらに対立して、勝気な相手方は申立人に対して攻撃的に指導の役割を強い、申立人は事件本人に体罰を加えることでこれに応じ、この事が相手方の反感をかい、前述の夫婦別居にまで発展した。この間夫婦は前々から抱いていた性格態度上の不満点をあばき合い、口論がたえなかつた。この別居はますます夫婦の間柄を嫌悪化した。しかし、相手方が徳島県児童相談所の養護相談に行き、昭和四六年七月末には事件本人の一時保護を同児童相談所に依頼した結果、これを転機にして相手方は子供二人を連れ帰りいつたんは申立人と再び同居することに応じ、申立人は同年八月六日離婚調停の申立を取り下げ、事件本人は級友に迷惑をかけては困るという両親の配慮から、同年一一月より徳島市立○○小学校の特殊学級に転入し、夫婦は一時的には和解した形になつた。ところが、その後相手方は徳島市○○町○丁目の当時の実家に喫茶店を開店し、そこから事件本人を通学させることを計画し、申立人とは十分相談しないで事を運び、昭和四七年六月頃二人の子を連れ再び実家に戻つて別居し、同年七月喫茶店を開店した。しかし間もなく、申立人の母から仕事の邪魔になるだろうから事件本人を引き取るとの申入があり、当時相手方は申立人との離婚にはまだ迷いがあつたので、この申入に応じ、子供二人は相次いで申立人の許へ帰つた。そして申立人も喫茶店に手伝に来始めたが、申立人は非常に嫉妬深く、男性客と相手方との不貞を疑うようなことがあつたので、相手方はこれを嫌つて申立人に完全別居を求めたが、申立人に拒否され、二人の仲は愈々険悪となり、ここに至つて相手方は申立人と離婚する気持を固め、結局、夫婦は離婚することに同意し、相手方は同年八月一日離婚届出用紙に署名した。その際相手方は離婚後子供二人を監護することを主張したが、申立人が絶対に引き渡さないと言明したため、周囲の助言を受けて子供の引取をあきらめ、双方は同年一〇月四日付で、事件本人および健一の親権者を申立人と定めて協議離婚の届出をした。

申立人は「相手方は事件本人が一一歳になつた時に引き取ると約束した」と申述するが、納得できる根拠に乏しく、上記事実の経過からみて到底信用できない。

(4)  離婚後、横浜在住の申立人の実母が申立人と同居して子供二人の面倒をみていたが、申立人は昭和四九年四月現在の妻順子(当時三九歳)と再婚し、同女が、祖母に代つて、事件本人と共同生活を始めた。継母順子は初婚で、子供を養育した経験はなかつたが、当初は親しみをもつて事件本人に接しようと努力した。ところが、継母の予想に反して、事件本人は継母から何回注意されてもその場限りの身の廻りの世話しかできず、失禁したり、あるいは自分で衣類の汚れを仕末することや生理の手当をすることができないで、衣類、布団を汚し、逆に、外出すると、大人びた世辞や挨拶をするなど、継母には全く言い甲斐のない、手に負えぬ子と映つた。継母はこのような事件本人の行動に対し次第に生理的な嫌悪感を抱くようになり、間もなく事件本人に対して拒否的態度でのぞみ、事件本人を放置し、あるいは感情的になつて事件本人を怒り、叩き、つねる毎日が続き、継母は申立人の注意も全く受けつけず、ただ一途に事件本人との同居を苦にした。他方、事件本人は継母の顔色をみておどおどし、常に緊張し、継母を嫌い、継母に怒られるのが嫌さにもつぱら戸外ですごし、継母に拒否的に扱われて、愛情欲求が充足されず、その結果、実母を恋しく思つたり、やさしく声をかけてくれる大人について行く事態が起きた。このような継母と事件本人との葛藤は、継母と申立人の結婚生活にも影響を及ぼし、継母は事件本人との同居が続くかぎり申立人との離婚も辞さぬ覚悟で申立人に対し継母をとるか事件本人をとるかの選択を迫つた。申立人は、妻順子との結婚生活を維持するため、昭和五〇年夏頃相手方に対し事件本人の引取を求めたが断られ、次いで徳島県児童相談所に対し事件本人を精神薄弱児施設に収容してほしいと入所措置の申出をしたが、措置要件に該当しないとして拒否されたため、同年一〇月四日当庁に本件親権者変更の調停申立(当庁同年(家イ)第四〇八号)をするに至つた。

(5)  相手方は、離婚後昭和四七年一〇月当時徳島大学医学部生の井上廣志と知り合い、間もなく恋愛関係に発展し、同年一二月頃から井上のアパートで同棲生活に入り、昭和四九年四月井上が医師国家試験に合格し、相手方はその頃妊娠したので、同年七月一〇日井上の親族の反対を押し切つて婚姻した。そして昭和四九年一〇月井上は○○○○病院の医師として赴任し、相手方は昭和五〇年一月二五日長女恵美を出産し、平穏に生活していた。ところが、同年夏突然事件本人の引取が申立人より持ち出され、相手方は引取意思があつたので、夫に相談したところ、夫より、親の猛反対を押し切つてまで結婚した手前、さらに事件本人を引取らざるを得ない場合には相手方と離婚すると強く反対され、さればといつて相手方は、井上と離婚して我身の安寧や子供の幸せを犠牲にすることまではためらわれ、結局、事件本人を可哀想に思いつつ、前記のとおりその引取を拒絶することに決めた。その後の同年一一月二八日本件親権者変更の調停は高知家庭裁判所に移送され、昭和五一年一月一九日、二月二三日の二回調停委員会による調停がおこなわれたが、不成立となつた。相手方は同年五月夫の徳島県立○○病院への転勤に伴つて徳島市内の病院公舎に転住し、同年七月二八日二女智美が出生し、これにより事件本人の引取は一層困難となり、相手方は申立人が事件本人を里親の養育に委ねるか、児童福祉施設へ入所することを希望するようになつた。この間にも、事件本人と継母との関係は悪化する一方で、継母は事件本人と同居していると気が変になると訴え、申立人がもつぱら事件本人の面倒を見ていたが、事件本人は申立人夫婦の許では全く心理的安定を得られず、加えて申立人と継母との夫婦関係も破綻の兆候を見せ始め、このため継母子関係の回復は望み薄となり、申立人夫婦の許で事件本人を養育することは事件本人を増々情緒不安定にする以外のものでもなくなつた。

(6)  そこで申立人は再び徳島県児童相談所に事件本人の措置を相談し、この結果事件本人は昭和五一年一二月二三日から阿南市の養護施設○○学園に預けられ、昭和五二年四月からは同学園より○○中学校特殊学校に通学するようになつた。事件本人は入園当時は緊張感が高かつたが、施設の生活に慣れてくるにつれて、明るく落着きを取り戻し、友人も出きて施設の生活に好感をもつて適応し、協調性も芽生え、非常に素直で問題行動は見られず、現在健康で快活に毎日を過ごすようになつている。

(7)  申立人は現在妻順子、長男健一と同居し、前述の会社に勤務し、事件本人の○○学園入所により家庭内は表面上平穏を保つているが、夫婦関係は円満を欠いており、順子は事件本人の親権者が相手方に変更されない限り、事件本人が○○学園を退所してくるのではないかと常に緊張し、申立人は事件本人が施設に入所し、健一が小児喘息で長期休学までしているのに、母親の相手方が医師と結婚して、ひとりのうのうと暮しているのが我慢ならないと訴え、事件本人を施設に入所させておいたままでもよいから、相手方がその親権者になるべきと主張し、親権者の変更に強く固執している。他方、相手方の夫はその後徳島大学医学部勤務となつて研究生活に戻り、公舎を明け渡したため、昭和五二年四月相手方は肩書地の相手方実母の許に転宅し、二児の養育に専念し、夫婦仲は平穏であるが、事件本人の引取について夫の意向は依然として変らず、相手方が引取を強行すれば離婚に発展し、事件本人と同じく二児から父母を奪う可能性がある。

二  以上の事実に照らして本件親権者変更の必要性について判断する。

(1)  親権者変更は子の福祉、幸福のために必要な場合に限り認められる。本件の場合、申立人と事件本人間の愛情、信頼はいまだ消失していないとみられるが、事件本人に対する継母の慈愛が得られず、かえつて両者は敵意と緊張に満ちた生活関係にあつたもので、申立人の努力のみでは事件本人に対し十分な監護ができず、その生活環境は事件本人の福祉のために好ましいものとはいえなかつたことが明らかである。しかも、申立人は現在では事件本人を養護施設に預けており、当分自らその監護にあたることができない状況であるから、事件本人の親権者として必ずしも適当であるとは認められない。しかし、他方、相手方に親権者を変更し、夫の反対を押し切つて事件本人を引き取らせた場合、即座に離婚問題に発展して、家庭が崩壊してしまう危険があり、かくては罪なき二児を事件本人と同じ境遇に追いやることになり得策でないとみるべきである。相手方は今でも事件本人に対し愛情を抱き、その成育に関心をもつているが、夫の反対にあい、自分の保身もあろうが、新しく生れた子供に対する配慮から事件本人の引取を拒否しているもので、この態度は一概に無責任と責めるわけにはいかない。むしろ、申立人は離婚当時自ら承知して事件本人の親権者となつたのであるから、再婚した申立人夫婦の生活の中で発生した葛藤を相手方の家族の犠牲の上に解消するようなことは公平に欠けるといわねばならない。しかも、申立人が親権者変更に固執する背景には、妻順子の強い要請もあるが、同時に、相手方に対する執着や井上に対する劣等感、敵意などの愛憎が如実に感じられ、必ずしも、事件本人に対する愛情から、その幸福を願うためのみとも認め難い。そしてなによりも先ず事件本人は現在養護施設における生活に適応して快活に生活しており、施設も熱意をもつて事件本人の教育にあたつているのであつて、事件本人を相手方に引き取らせてその監護に委ねることが現状のまま事件本人を養護施設に収容して監護教育を続ける場合と比較して、一層事件本人の福祉、幸福をはかることになるとはとうてい考えることができない。むしろ事件本人は出生以来、現在最も心理的に安定した環境にあると思われる。

(2)  申立人は妻順子の気持を納得させる意味でも、事件本人を養護施設に入所させたままでよいから、親権者を相手方に変更することを希望しているが、親権者の変更はあくまでそれがより子の幸福、利益の向上につながるか否かを基準として判断すべきもので、子と対立する継母の感情的な意向を優先するようなことは許されず、変更後の親権者が養護施設より子供を引き取り、自ら監護教育にあたらないことが明らかな場合には、親権者変更をおこなつても何ら子の利益のためにならないから、このような親権者の変更は特別の事情のない限り認める余地がない。そして養護施設が事件本人の監護教育にあたつている現時点では申立人の親権者としての負担は軽微であつて、相手方に親権者変更を必要とする申立人側の特別な事情はみあたらない。

(3)  従つて現時点では事件本人の親権者を申立人から相手方に変更する合理的な必要性はないものと認めるのが相当である。

よつて、本件申立は理由がないから却下することとし、主文のとおり審判する。

(家事審判官 藤田清臣)

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